愛成会の自慢の職員を紹介します

2025(令和7)年は「昭和100年」ということで、古き良き昭和の出来事や風景、文化などを振り返る企画をよく目にするようになりました。それを見て「いい時代だったなぁ」と郷愁に浸る世代もいれば、昭和の文化を新しいものとしてとらえる世代もいます。

 愛成会は、前身となる財団法人が終戦直後から活動を始めています。その法人を発展的に解散し、社会福祉法人愛成会が設立されたのが、1958(昭和33)年でした。定員が女子のみ20名の入所施設としてスタートしました。

そんな歴史のある愛成会には、勤続50年の職員が1人います。現在、グループホームで勤務されている吉田純子(よしだじゅんこ)さんです。吉田さんが見てきた愛成会と、50年間働いてきた思いをお話していただきました。

「勤続50年」結構、楽しかったんです。

 

私が、愛成会に就職したのは、1975(昭和50)年4月1日です。淑徳短期大学を卒業して、すぐに就職しました。

私が高校生の頃、日本中で福祉の重要性が叫ばれるようになりました。私はそれまで、薬剤師になりたいと思っていましたが、福祉に関心をもつようになりました。私は沖縄出身ですが、兄や姉は東京で進学していましたので、私も姉と同居して淑徳短期大学に通いました。短大では社会福祉学科を専攻し、「卒業したら、ワーカーになろう」と漠然と考えていました。

就職先を愛成会に決めた理由は、姉と一緒に住んでいた板橋区から通える施設が他になかったからです。他の施設は都心から遠かったし、当時は住み込みがほとんどでした。愛成会も職員のほとんどが住み込みでしたが、職員寮がある訳ではありません。利用者さんたちが生活している施設の上の階の部屋に職員は住んでいました。

その頃、「ご飯とお味噌汁は自分たちでつくろう」ということになって、めぐみ寮、いずみ寮、のぞみ寮、しおん寮のそれぞれで、前の日に煮干しをほぐして翌朝お味噌汁をつくって、ご飯も炊くというのを、何十年も続けました。その頃の利用者さんは、一般就労している人や結婚して退寮するもいたんですよ。だから、朝食づくりは職員と利用者さんが一緒にやっていました。でも、多くの利用者さんたちは、寮で1日中過ごします。特別支援学校も十分整備されていない時代でしたから、寮では学校の授業のようなプログラムをしていました。

 

年間行事でバザーを開催するときは、1週間ぐらい前から、寄付してくれる品物を利用者さんたちと一緒に、世田谷とかあちこちに取りに行きました。もらってきた品物に値付けをするのも、利用者さんたちと一緒にしました。八百屋さんなど地域のお店も出店してくれたので、愛成会のバザーには100人ぐらいの行列ができてすごかったんですよ。年間行事のときは、職員もすごくがんばってましたね。クリスマス会では「キリストの生誕劇」をやりますから、その衣装づくりも職員の仕事でした。1日中、利用者さんと針仕事をしました。その頃は栄養士さんも気合いが入っていて、クリスマス会の料理にキャビアが出てきて、「キャビアを初めて食べた」という職員がたくさんいました。何だか、いい時代でした。

 

私は、愛成会で育児休暇をとった職員第1号なんです。当時、女性は結婚したら退職するというのが一般的でした。だから、私も退職しようと思っていたら、当時の園長が「育児休業という制度があるから、それを利用して休んでまた戻ってきてください」と言ってくださったんです。それで休暇を取りましたが、実際には退職者が出るタイミングがないと復職できないということで、職場復帰したのは9ケ月後でした。それからは、ゆっくり考える間もなく、片道1時間の通勤で愛成会と自宅をハツカネズミみたいにグルグル回っているような生活が続きました。仕事と育児の両立は大変でしたね。

その頃は、各寮に施設長が1人いて、管理職はその人だけでした。それぞれの寮を担当する施設長が職員と一緒になって、何もかも寮単位で行っていました。例えば、クリスマス会でのお母様方へのプレゼントも寮単位で考えたり、勤務調整も利用者支援も1人の施設長と職員が一緒にやるというスタイルでした。

 

 福祉職の待遇については、私が就職して以降、徐々に改善されたように記憶しています。私は姉と一緒に暮らしていて余裕があったのか、初任給の額を覚えていません。私が入職した当時「家賃を払うのが厳しい」という理由で住み込みで勤務していた職員が、少しずつアパート暮らしに移行していきました。職員も若い人が多かったですね。利用者さんも若かったです。

その頃、障害者雇用というのはまだありませんでした。愛成会からは、有名洋菓子店やオーダーメイドの洋装店や精密機器工場など、世間と同じように給料をもらって働いている利用者さんが何人もいたんです。その頃は、知的障害の人が利用できる施設が限られていたので、そういう利用者さんも入所施設にいたんですね。今は、グループホームや通所施設など選択肢が増えましたよね。そういう意味で、福祉はずいぶんよくなりました。

 

愛成会は長く、愛成学園という入所施設だけを運営する、いわゆる1法人1施設でした。それが、1993(平成5)年に「愛成ホーム」というグループホームができて、それから少しずつ事業を拡大していきました。そんな流れの中で、私は理事や管理者の役割を担ったこともありました。でも、職員が潤沢にいる訳ではありませんでしたので、現場の業務をやりながら、法人経営に携わるという形でした。そういえば、当時お世話になっていた弁護士さんが「(愛成会は)これからは福祉のコンビニになれ。こんなにすばらしいところにあるんだから」と言っていたのが記憶に残っています。確かに、愛成会は駅からも近く、街中にあります。愛成会が身近な社会資源として存在することは、地域にとって意味のあることだと思いました。

 

 そんな愛成会で50年働いて、やり残したことはありません。50年も勤務できたことは、その時代時代の私を(足りない所も含めて)認めてくれた利用者さんや保護者の一人ひとりのお陰です。そして、共に仕事をさせていただいた職員の皆さんと、私にかかわってくださった全ての方々に感謝を申し上げたいと思います。これからも愛成会で働く職員の皆さんには、利用者さんたちへの支援を通して、愛成会にいる時間が楽しい時間になるようお祈りします。

 そして、私もまだまだ元気ですので、引き続き、利用者さんたちを支援させていただきたいと思っています。愛成会の利用者さんと一緒に過ごす時間が大好きなので、もう少しがんばりたいと思います。

 

グループホーム

吉田 純子(よしだ じゅんこ)

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